多分野活動領域とつながるための第2回交流学習会

〜暴力防止のためのいろいろな試み〜
社会福祉におけるイギリス最新情報と日本の課題/
スウェーデンの取り組みと男性のための危機センター(3)

社会福祉におけるイギリスの最新情報と日本の課題

一橋大学大学院社会学研究科 猪飼周平さん

  私は暴力の専門ではありません。現場で一生懸命いろんな活動をしておられる方々に何かを教えるような立場ではないと思います。私は学者が中心のアイデンティティなのですが、社会理論家に近い研究者です。私の役割は地図屋のようなものです。皆さんの日頃の活動が何であって、どういう意味をもった活動であって、もし向かうべき方向があるとすれば、それはどっち方向なのか。地図はそういうものです。自分の現在地点や自分が向かうべき方向についての知識を与えてくれるものだと思います。そういうタイプの知識を生み出すことが政策学の大きな使命だと考えています。皆さんが日頃いろんな形で行われている活動に対して、それが今の社会の流れの中でどういう位置にあるのかについて、私なりの理解をお話しできればと思っています。

減少傾向にある暴力
  まず、暴力から出発して考えると、スティーブン・ピンカーが書いた『暴力の人類史』は非常に話題になった本で、すごくインパクトのある本です。彼の議論によると、暴力は歴史的な大きな流れのなかでフラクタル的な現象をしていると言います。フラクタルは、近くで見ても大きく離れて見ても同じ形に見える。700万年の人類の歴史で見ても、有史2000年、3000年という時間で見ても、あるいは近代史、数百年で見ても、現代史、数十年、100年という時間で見ても、暴力は一貫して減少傾向にあるという議論です。
 信頼できるデータがないので、どこまで信頼性のある議論なのかというのはありますが、私には一定の説得力があります。特に人口比で見ると、人口の3分の2を殺したという事件はいくらでもあるわけです。今日で言えば、数十億人をいっぺんに殺したという規模の殺戮が普通に行われていた時代があって、そういうことが徐々に禁止されていく、あるいはすたれていく。戦争も殺人も決闘、レイプ、死刑というものが基本的にはすたれていく方向にあるのだということです。
 これは日本の厚労省のデータで、殺人の被害者数は人口比で見ても実数で見ても、戦後一貫して減っている。殺人の場合には認知されやすいので、まあ正確なものです。警察の方の統計を見ると、強盗などはひったくりを窃盗に入れるか強盗に入れるか、警察がやる気を出したりやる気をなくしたりすると、統計はどんどん変わってしまう。認知件数の限界ですが、背後にすごく大きな暗数があります。大きく見ると、基本的には減少していると読めます。

様々な問題や困難を抱えている人たちをどう支えるか
 つまり、我々は過去に例がないほど暴力の少ない社会に今日生きていることを、まず踏まえなくてはいけない。もちろん1つ1つの事例の深刻さがキャンセルできるとは言いません。ただ、これから出発した時に、社会政策の分野で研究している人にとっては既視感のある状況です
 最も典型的なのは貧困です。貧困は1980年代くらいまで、日本においても一貫して減り続け、飢えなくなってくる。そういった状況のなかで、「もういいじゃない」いう流れが出てきてしまう。だいぶ減ったし、いいじゃないと。実際にはなくなっていない。貧困の考え方の基本になる「相対的貧困」という概念を使うと、今日の社会でも貧困は至る所に見られると言えるでしょう。
 ただ、それはかつての貧困とは違うのです。死んでしまう、飢えてしまうこととは違う意味合いで、しかも相対的なものなので、所得の下の何分の一という数え方をする。ですから、それを貧困と呼んでいいのかという論争が絶えないわけです。それを強行に推し進めた結果、権利で守ろうとしたことによって、実態と規範との間にギャップが生まれるのです。
 ルサンチマンというか、エネルギーが生活保護の受給者に向かうことになる。生活保護の受給者のあら探しをして通報しまくる人たちがたくさんいます。パチンコやっているとか。権利としては生活保護受給者がパチンコをやっていいのです。けれども生活保護の受給者らしく申し訳なさそうにしていないといけないという規範、ある種の本音が吹き出していってしまう。
 暴力の問題についても、そういうバックラッシュのリスクがすごくある状況に見えます。そういうものをこなしていきながら、皆さんが関わっておられる目の前の当事者の方たちをどうやって支えていけるかということを、二枚腰三枚腰で考えていく。そういう発想が必要なのだろうと思っています。それをどう考えていけばいいのか。生活上の様々な問題や困難を抱えている人たちをどう支えていくことが可能なのかという問題について、ずっと研究しています。私がわかっている範囲を少しお話しします。
 路上強盗、ひったくりがありますが、ちょっとからだに触って怪我したら強盗に入る。警察側には凶悪犯罪が多い方にインセンティブがあります。平和になると組織が縮小されてしまうので、そうならないために今の日本はひどい、ひどいと言った方がいいという動機があって、統計の信頼性が問題なのです。

複雑でゴールのない支援が必要な状況
 自殺対策支援NPOのライフリンクが2008年に523例の自死遺族に、1件あたり平均2時間半のインタビューをしました。おそらく二度とできないようなレベルのものです。そもそも自死遺族の方はインタビューを受けてくださらないので、ライフリンクの信用でできたものです。
 そこから見えてきたことは何だったのか。自殺は1つの出口です。暴力や失業、貧困、不登校、ひきこもりといったいろんな出口があるわけですが、それに引っかかってくる問題が金太郎飴と同じだと申し上げたい。調査でわかったことは、67から68くらいの要因が関与していて、たくさんの理由がある。要因の数は研究者側が用意したカテゴリーの数で、それを細かくくだいて調査すると数が増えるので、68が絶対的意味をもつわけではなく、たくさんあります。しかもそのカテゴリーで見た時に、既遂者(亡くなった方)1人あたり4つくらいの要因を抱えている。1つだけの要因で亡くなった方は、ケースとしてはいなかった。つまり1つの理由で死ぬのではなく、複合的で複雑な背景のなかで亡くなっているということです。
 当事者の支援をされている方は自殺のリスクがある方にも関わっておられると思うのでご存じだと思いますが、自殺は死にたくて死ぬわけではないのです。自分にはもう生きる道が残されていないと思い詰めていくプロセスの末に、自分の道はこれしかないと思い定めて亡くなるわけです。これが一般的な姿です。
 その時に、死なないようにすることをゴールにした支援が意味をもつかということなのです。生命保険に免責条項があって、1年間は自殺しても保険金が下りない。1年過ぎてしまうと保険金が下りる。これをずっと免責にしてしまえば自殺者は減るだろうという議論を経済学者はするのです。ただ、それによって何が起きるかというと、生きる道が見つからない人が死ねなくて、ただ生きている状態が起きてしまう。これを生き地獄と言います。それはゴールにはならない。「自分は生きられるんだ」という具体的な手応えを見つけていくプロセスと一緒でなければ、支援にはならないわけです。
 ゴールは人それぞれ違いますから、よくわからないものとしてある。しかも問題状況は非常に多岐で複雑で個別的です。おそらくDVの被害者であろうが、レイプの被害者であろうが、ある種の困難を抱えている人であろうが、基本的には同じ格好をしているわけです。
 これに対して従来どんな支援が考えられてきたか。典型的には精神科医が思いつく考え方ですが、亡くなる前に多くの方は鬱になります。抑鬱状態という広い概念を適応すると、もっと多くの方たちが亡くなる前に抑鬱的な状態になっていることがわかります。抑鬱状態にある方をできるだけ早く見つけて精神科医につないで薬物療法をすれば自殺者が減るというアプローチが施行されてきました。これは重要そうな問題を見つけてきて一点突破的に勝負する、たくさんある要因のなかで考えると、そういう性格のロジックです。
 自殺が90年代後半に増えた時は、中年の男性が中心でした。日本の自殺者数は景気変動との相関が大きいと言われています。会社をつぶしたくらいで死なないといけない社会。失業や負債を整理してあげれば自殺者が減るだろうというのが弁護士的な発想です。これも狙い撃ちであることは変わりません。
 自殺問題に詳しい方はご存じだと思いますが、アルコールなど様々な問題は、大きな自治体であれば相談窓口があります。70くらい例としたものには相談窓口があります。ところが、既遂者の75パーセントの方たちは相談窓口や専門家に相談に行っているのです。しかも亡くなる1月以内に48パーセントの方は行っている。つまり亡くなった方たちは最後までなんとか生きようと、支援を求めていた。けれどもこうした決め打ちの支援をすり抜けて、年間3万人が毎年亡くなることが10何年続いているのです。

「よりそいホットライン」
つまり、従来の支援の仕方あるいは対策の立て方に根本的に問題があったのではないかということです。このような決め打ちの対応にはまらない人たち、こぼれていく人たち。亡くなった方は年間3万人ですが、亡くならずにそういう状態でいる方たちがどのくらいいるのか、正確な数はわかりません。ただ1つ想像できるもの、データを示します。
これは「よりそいホットライン」といって、震災の後にできたヘルプラインですが、ジェンダーの問題を扱う回線もあります。「よりそいホットライン」の一番重要な特徴は、どんな人がかけてきても、どんな困りごとでも、いつでも365日24時間受けるというタイプのヘルプラインです。従来の決め打ちのサービスはそこで引っかかって解決しますが、そうならなかった方たちをまるごと全部引き受けますという回線なのです。2015年のコール数は1千100万件、翌年は1千300万件になっています。同じ方が何度もかけることが起きるので、実数はこれより少ないはずです。
一方、「よりそいホットライン」はメジャーな媒体での宣伝を一切していませんから知らない方もたくさんおられて、もっと広まると電話のコール数はもっと増えるでしょう。複雑な背景を抱えていてゴールがわからない状態で、社会から取り残されている方たちは膨大な数だということがわかります。
祖型になった千葉県のプロジェクトには多様な相談が来ています。最近始まった生活困窮者自立支援法における自立相談支援事業で、自治体でやっているものです。「よりそいホットライン」に似たタイプで、事実上何でも受ける。自治体によって対応が違うのですが。これにもロングテールでいろんな相談が来ていて、相談者も多様です。ここから想像されることは、取り残された方たちが膨大にいることです。
http://279338.jp/yorisoi/

戦後福祉国家/社会保障の限界
 今日の集まりの目的として、西田さんが最初に言ってくださったように、連携を考えなければいけない。DVだけの問題だけを考えていても、天井に当たって前へ進めなくなってしまう。そこをどう考えればいいのかという時に、実は金太郎飴のように、多くの人たちが違う名前のカテゴリーの問題として、いじめなどを把握しているのだけれど、その根っこにあるような、構造としては同じだけれど一人一人違う姿である問題を抱えている方たちが膨大にいるのです。
 少し大きなスケールの話になりますが、戦後70年余にわたって我々の社会は社会保障、福祉国家を営々と築こうとしてきた。1940年代の国連の人権宣言が本格的に意味をもつ形になるのは70年代です。我々の暮らしを良くしていこう、人々の暮らしを支えていこうという営みが続いてきたわけです。その結果として我々が手にしたのが、膨大な数の取り残された人たちということです。
 戦後の福祉国家なり社会保障そのものが、もともとオールマイティではない、相当な限界をもった支援方法だった。社会保障は煎じ詰めると、国民からお金を集めて配り直すわけです。このメカニズムで、目の前の方たちにお金を渡したら全て解決することと同じような発想なのです。そんなことはあり得ない。それを前提とした、それで救われる人だけ救われればいいという社会システムです。貧乏より貧乏でないほうがいいだろうと一定の正当性をもつのだけれど、そのやり方一本槍では我々の社会の多くの困難を解決するには相当限界があるのです。
 社会保障が実際になしえたことは、ナショナル・ミニマムのラインだと考えていただければ、下の人たちには生活保護制度を使って、公的扶助で上まで引き上げる。上の方の人たちは下に落ちないように社会保険で支える。これが社会保障の基本的なあり方です。
 生活保護では補足率という概念があり、生活保護を受けるに値するような貧困状態にありながら生活保護を受けられていない人たちが、日本には7割から8割いると言われています。つまり下のものを上に上げる約束を果たしていない。果たそうとすると、お金だけではどうにもならない人たちばかりなのです。そこまでやってもしようがないという話になってしまう。
 逆に経済状態はそれほど深刻ではない故に、従来は生活困難という問題を抱えている人のカテゴリーに入らないと見なされている人たちがいます。ジェンダー上の問題やセクシャルマイノリティの方たちも、入る方がたくさんおられると思います。そこにも大きな問題が広がっています。
 社会保障のメカニズムを最初にクリアな形で提案したのはイギリスのベヴァレッジで、「ベヴァレッジ・リポート」があります。その時には、社会保障をやっておけばその問題は一掃されると思っていた。我々の生活上の問題は基本的には経済問題だと思っていたので、お金を配り直せばなんとかなると思っていたのですが、実際には全然そうではなかったということです。

寄り添いという支援
 支援するとき、当事者の人生の目的、何をすれば支援したことになるのかということは、究極的にはわからないことなのです。一人一人がすごく複雑で個別的な背景をもっているので、DVの被害を受けた方たちを支援しようとすると、別の人を同じやり方で支えることはできないはずです。
 この2つの事実を認めた上で、どういう支援が可能かということを考えた時に、出てくる支援の型があり、これを私は「生活モデル」と呼んでいます。何をしたら支援したことになるかがわからないので、支援は本質的に非問題解決的になります。「あなたの問題はこれで、これを解決すればあなたはハッピーになります」とはなっていない。
 もっとも典型的なやり方が寄り添いという支援です。寄り添いについてイギリス人に説明する時に、イギリス人は寄り添いをやっているのですが、ぴったりの英語の単語がないのです。説明するのにずいぶん苦労したのですが、一番すっきりくるのがwalking along、一緒に歩く。まさに寄り添い的な内容です。「私はあなたに何の支援ができるか、わからないけれども、一緒に生きていく道を探していこうよ」という支援のスタイルです。今日お集まりの方たちの一番基本になるスタイルだと思うのですが、その支援の仕方が寄り添いです。最近は伴走という言い方をする人もいます。
 人間は合理的に何か目的に向かって生きている存在ではない。では、なんで生きているのか。でも生きている。我々は目的がなくても生きられるようにつくられている。どうやって生きているかというと、生きようとする力で生きている。力があるから目的がなくても生きられる。そういうあり方を人間がしていなければ、700万年前に人類が生まれて今日までの間に、あっという間に滅んでいるはずです。目的がなかったら生きられないとしたら、コンビニで買い物もできません。
 ある種、力で生きているわけですが、実際には生きようとする力が衰えることがあって、この状態をソーシャルワークの領域ではpowerlessといいます。Powerlessの状態になる時に力を与えるような、支えるような支援のしかたをエンパワメントと言うわけです。問題を解決するのではなく、複雑で困難なこの世界に本人が立ち向かっていけるように、杖のように支えることが寄り添いの基本的なアプローチです。


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